湊かなえのミステリー小説『母性』が2022年に主演戸田恵梨×永野芽郁で映画化されました。
そしてNetflixで6月より配信開始となり、日本のランキング1位が続いています。
母性を持てず「娘を愛せない母」と、「母を愛したい娘」の母と娘における恐ろしいまでの関係を描いたサスペンス・ミステリー映画ですがラストで、なぜルミ子(演:戸田恵梨香)が清佳(演:永野芽郁)の首を絞めたのか気になった方も多いのではないでしょうか。
今回は母性の結末ラストシーンの考察や、原作との違いについて調査したいと思います。
- 映画「母性」の結末概要
- なぜルミ子が清佳の首をしめたのか理由について
- 原作との違いについて
こちらの記事では映画「母性」や原作のネタバレがありますのでまだ見たことない方はご注意ください。
映画「母性」の結末ラストシーン(概要)
映画「母性」の結末を簡単にご紹介したいと思います。
清佳は父親から火事が起きた日の真実を知ります。
そして全てを清佳に語ったルミ子は清佳に対し「愛してる」と言い、清佳の首を締め始めました。
清佳は最初「ルミ子になら」と思っていましたが、我に返り振り払いその場から逃げます。
そして、清佳はその後、自ら命を絶とうとし、首を吊ったのでした。
しかしながら未遂に終わり、義母により見つかり救急車で病院へ運ばれます。
そして、病院で意識を取り戻し目を開けると、そこにはルミ子が居て、清佳の手をずっと握っていました。
場面は変わり、現在に。清佳が同僚と会話をしていました。
清佳は「女には2種類ある」と話します。
2種類とは何なのか問われた清佳は【母と娘】と言いました。
そして清佳は妊娠しており、ルミ子に電話で妊娠していることを伝えた清佳。
ルミ子は「おめでとう」とは言わず、自分が母親に言われた時と同じ「命を繋いでくれてありがとう」と伝えます。
そして清佳は「私はどっちかな?」とお腹に手を当て一言話すのでした。
清佳が妊娠したことに「おめでとう」とは言わず「命を繋いでくれてありがとう」と母に言われた時の言葉をそのまま感情を込めずに話していたルミ子にはやはり大人になった娘に対しても「母性」がないことが分かります。
最後に清佳が話した「私はどっちかな」というのは「私は【母と娘】どっちかな」という意味で話しています。
ルミ子は、自分に子供ができて、母になっても、「ルミ子の母」の娘でした。
「娘」で居続けた結果、清佳はルミ子との関係が良くはありませんでした。
なので、清佳は「私は母性を持った母になるのか」はたまた母と同じ「母性を持たない娘のままでいるのか」どっちかなという
意味が込められています。
映画「母性」ラストシーンで首を絞めた理由は?
なぜ、ルミ子は清佳に対し、「愛している」と言いながら首を絞めたのでしょうか。
実は首を絞めたのは、あくまでも清佳視点描かれ方で、ルミ子視点では描かれていません。
本作は「ルミ子の視点」と「清佳の視点」で物語が進んでいきます。
実は首を絞められているシーンは「清佳の視点」なのです。
ではルミ子視点ではどう描かれていたか…
ルミ子の視点では清佳を抱きしめている。
映画の序盤でもそうですが、ルミ子の視点では「母性を持っている母」ようなルミ子が描かれていて、清佳に対しても優しい口調で居ました。
しかし、清佳の視点ではルミ子は「自分に対して愛情がない母親」として描かれています。
その為清佳に対して口調や目つきも非常に怖い母親です。
首を絞めていたのは、「清佳から見えているルミ子への恐怖」だったのではないでしょうか。
実際、ルミ子視点が正しいのか、清佳視点が正しいのかは不明ですが、自殺未遂の後の清佳視点のルミ子は清佳に寄り添った「優しい母」でした。
なので、清佳は小さい頃から感じていた「母に良い子に見られたい」気持ちがいつの間にか「母への恐怖」に代わっていたのではないでしょうか。
映画「母性」原作との違いについて
映画と原作では少し違う点があります。
違い①ルミ子のもう一人の娘が登場しない
映画にはルミ子には一人娘の「清佳」しか登場しないが、実は原作にはもう一人の娘が登場しています。
原作の物語中盤でルミ子が第2子を身ごもります。
30歳を超えて妊娠した子であったことから、
義母たちから嫌味を言われますが、ルミ子は2人目を、長女の清佳よりも大切に育てようとしていました。
性別がわからなくても、ルミ子はなぜか「娘」と確信していました。
それは、2人目が亡くなったルミ子の母の生まれ変わりだと思い込みます。
しかし、ある事故がきっかけでルミ子は流産してしまいます。
この出来事が田所家との大きな溝になり、また「歪んだ母」になってしまうのです。
違い②結末の違い
何よりも映画との違いはこの結末にあります。
映画も原作も幕を閉じるラスト同じです。
母性を知らずに育ってきた清佳の妊娠で幕を閉じる
映画では基本的には常に「ルミ子」と「清佳」をメインに展開されますが原作ではラストに田所哲史が登場します。
清佳が自殺未遂をした際に、哲史は愛人の仁美と逃げます。
哲史はルミ子と清佳から目をそらしているのには理由があり、ルミ子の母親が自殺したのを目撃していて、その際に絵が燃えたくないからと哲史は先に逃げました。
自分が絵を持ち出すことがなければルミ子の母親も助けれてたとしれないという罪悪感を持っていたため、ルミ子と清佳から目を背けるのでした。
最終的に哲史は仁美に別れを告げられ、ルミ子の元に戻ってきます。
ルミ子は許します。
そして妊娠した清佳は今まで自分が母親に臨んできたことを、自分の子供にしてあげたいと考えます。
そして最後に清佳は「母と娘」についてこのように考えていました。
「愛を求めようとするのが娘」であり、「自分が求めたものを我が子に捧げたいと思う気持ちが母性」なのだと。
最後に「母性」について触れているところはほとんど同じですが、その前の哲史のシーンは全く映画では描かれていませんね。
個人的には映画の結末の方が伝えたいことは分かりやすいかなという印象を持ちました。
まとめ
今回は湊かなえの「母性」の映画について、ルミ子が首を絞めた理由や、
結末について、原作との違いについて調査しご紹介しました。
- 首を絞めた理由はあくまでも「清佳の視点(回想)」です。
- 実はルミ子は首を絞めておらず「抱きしめていた」
- しかしどちらの視点が正しいかは描かれていない
- 原作と映画の違いはいくつかあり、
その中でも「ルミ子のもう一人の娘が登場しない」ことと「結末」の違いが大きいです。
最後まで見ると「母性」について非常に考えさせられますし、見終わった後には「自分は将来どっちになるんだろうな」と、清佳の最後の一言と同じ気持ちになっていました。
湊かなえさんが好きな方にはぜひ見ていただきたい作品の一本です。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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